性悪説と性善説
企業の不正は、なぜ繰り返されるのでしょうか。
この問いについて、しばしば語られるのが性悪説と性善説の二つの考え方です。
性悪説は、人は状況次第で不正を行う存在となり、厳格なルールや監視によって人の行動を縛ろうとします。
一方、性善説は、人は本来正しく行動する存在であり、できるだけ信頼と裁量を与えようとします。
もっとも、実際の企業運営では、性悪説に基づく制度設計が欠かせません。
職務分掌や承認手続、監査といった仕組みには、不正の抑止に一定の効果があるからです。
しかし、制度をどれほど厳しく設計しても、不正を完全に無くすことは困難です。
なぜなら、制度を作り、それを運用しながら、原則と例外を判断するのは人であり、そこには必ず隙や歪みが生じるからです。
そこで取り組まれるのが、性善説よりの制度運用です。
たとえば、業務のミスと不正を明確に区別し、ミスの自己申告は最大限に評価します。
また、現場の判断はできるだけ尊重し、判断に至った事実のみを報告させるようにします。
こうした制度運用は、現場の状況を客観的に把握することを助長し、不正が深刻化する前に問題を表面化させることが可能です。
しかし、この運用が極めて難しいというのが現実です。
上司は成果への圧力が強い中で、部下のミスを処罰しない姿勢を貫けるのか。
あるいは、経営者は、現場からの不都合な報告を冷静に受け止めることができるのか。
おそらく、一度でも、正直にミスを申告した人、不都合な報告をした人が、不利益を受ける結果となれば、性善説よりの制度運用は一気に形骸化します。
はたして、上司や経営者は、目の前の成果よりも、目に見えない信頼を選び続けることができるのか。
その覚悟と実行は容易ではありません。
それでも、性悪説だけに頼る組織が硬直して、不正を深く静かに溜め込むことを考えれば、この難しさから目を背けること自体が大きなリスクとなるのかもしれません。